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ルイヴィトンジッピーウォレットヴェルティカル編集

 長井利隆、  惚《ほ》れたとなれば、つい古典などをひきだして、過度な気持になるらしい。だんだん言葉をつくし、修辞を多くしてゆくうちに、むしろ自分の言葉に暗示されて、庄九郎が諸葛孔明にみえてきたのであろう。  庄九郎が、 「では。——」  とうなずいたのは、その夜も更《ふ》けたころである。 「ありがたや」  長井利隆、日護上人は、兄弟同時に手を拍《う》ってよろこんだ。 深《み》芳《よし》野《の》  人の世は、あすがわからない。  というが、こういう、わけのわかったようなわからぬような、その実、生きるためになんの足しにもならない詠嘆思想は、松波庄九郎にはない。 (あす、何が来るか、ということは理詰めで考えぬけばわかることだ)  と信じている。 「では庄九郎殿、お首尾がよろしいように」  と、常在寺の日護上人は、庫裡《くり》の玄関で庄九郎を送りだした。
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