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アレステッドデヴェロップメント編集

3 Years 5 Months & 2 Days in T
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3 Years 5 Months & 2 Days in T 
Zingalamaduni
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Zingalamaduni 
ベスト・オブ・アレステッド・ディ・ベロップメント
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ベスト・オブ・アレステッド・ディ・ベロップメント 
ダ・フィーリン
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ダ・フィーリン 
ザ・ヒーローズ・オブ・ザ・ハーヴェスト
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ザ・ヒーローズ・オブ・ザ・ハーヴェスト 
テネシー(遠い記憶)
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テネシー(遠い記憶) 
 鈴木はまず原田邸に出入りしはじめる。 [#この行1字下げ] 満州問題を我々が集まってプライベートに研究していた頃、官僚だとか財界とかに永田が非常に連絡を密にしたのは、この当時であった……。 [#この行1字下げ] まず、森恪と私(鈴木)が親しくする、それで近衛とか木戸とかのそういう人たちとの関係ができた。そして初めの間は、原田熊雄の家が平河町にあったが、そこで時々みなが集まる、朝食を食いながら集まるということになり、そのうちに原田の肝煎りで……財界方面にも渡りをつけるというようなことになった。そういうことで、永田は原田のところの朝飯会に来ていた。そういう人たちと話をし、軍の現況を話し、また軍は将来こうしなくちゃいかんという企画を伝えた。……こういうような時に満州事変が起った。〈『秘録 永田鉄山』(47年、芙蓉書房)58〉  鈴木のいう朝飯会というのは、原田が「元老に其時々の問題について報告する資料を得るのが目的で」、昭和の初めから各方面の人を呼んで朝八時から十時頃まで話し合ったものである。「食事は大体銀座のスコットが入れて居て、仲々うまかった」と木戸は言うが、レギュラーメンバーは近衛と木戸の二人で、鈴木はこれに目をつけて、永田に原田邸の朝食会で満蒙問題を論じるように取り運んだのだ。  陸軍は満州でまたなにかやるつもりらしい——原田は疑念を強めた。  七月十三日の朝、原田は、作曲家・近衛秀麿夫人の泰子を、自宅に呼んだ。  昨年(昭和五年)の三月から、原田は、西園寺と近衛文麿に相談して、「職務上知り得た真相」を口述しておくことにしていた。後に原田は高松宮にその目的を説明している。 「ロンドン条約の当時、ほとんど虚偽な放送ばかりが残って真相が少しも判りません。殊に、陛下のおとりになった態度、或は元老、側近、或は大臣の輔弼の状態なんかについてもほとんど嘘が多くって、そのために政界に非常な波紋を起し、ひいて軍部内にもいろんな問題を起すようになったので、いかにも陛下の御徳といい、英邁な、極めて高い御見識なんかについても、ほとんど想像以上に悪しざまに宣伝されて、まことに遺憾だと思うような点から、自分は、職務上真相を知っていたために、これを書き残すことが必要だと思いました。で、近衛と相談をして、結局近衛の弟の秀麿の夫人を頼んで、速記をとってもらって残すことに致しました」〈原田8─371〉  泰子は、近衛文麿夫人・千代子の妹で、九州豊後佐伯の藩主・毛利家に生まれ、毛利式速記術を創始した父・高範から手ほどきを受けていた。  第一回目の口述を、原田は、昨年(昭和五年)三月六日に始めた。 「その日はたしか、みぞれまじりの寒い朝でした、一カ月ほど前から、兄(近衛文麿)を通じて、このお仕事を頼まれておりました」(近衛泰子氏)  この日から、原田は週に一、二度の割で口述を続け、清書ができると西園寺に見せて、修正を受けた。口述を始めて一カ月後には、「満州某重大事件」を二度にわたって付け加え、これは、『西園寺公と政局』第一巻冒頭に収録されている。  その後、「ロンドン条約問題」に再び戻って、昭和五年末で一区切りをつけると、原田はそのまま口述を中止してしまった。それを、半年後になって、なぜ急に再開する気になったのか——結果から見ると、原田の判断は極めて的確だった。  口述を再開してすぐ、八月には三月事件の真相を耳にし、さらに九月には、またも「日本の陸軍あたりが元兇じゃあるまいか」〈同1─3〉と疑われる満州事件が勃発して、慌てふためく政府や宮中の様子を口述描写することになり、そのまま、西園寺が死去する昭和十五年秋まで、原田は、苦悩と緊張が続く政界・宮中・軍の内幕を語り続け、当時を知る第一級の貴重な資料を残すことになった。  陸軍は満州でなにか策動している——、時勢は急展開しつつある——、こんな気持が原田を口述再開へと駆り立てたのだった。
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