ルイ・ヴィトン アニーMM チェーン ショルダーバッグ モノグラムマルチカラー M40308 LOUIS VUITTON ノワー
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null 具体的には、王法とは神道を中心とした宗教的権威にもとづく秩序のことであり、王事とは律令制度にのっとった政治体制のことである。  こうした祭と政が一つになって、後代の公家たちが憧憬《しようけい》する聖代を現出したのだった。  むろん人の世である以上、延喜、天暦の聖代とはいえ、国が完璧《かんぺき》に治まることは不可能である。  そのことは公家たちも充分承知していたことは、藤原|資房《すけふさ》が長久《ちようきゆう》元年(一〇四〇)五月一日の日記に次のように記していることからも明らかである。 〈昔聖代に非常事あり。延喜二年、越後守有世、世民のために捕獲され、殴打され、|剃髪着※[#「金+太」、unicode9226]《ていはつちやくだ》をなす。また安芸守京中において殺さる。この如き事、非常の甚だしきというべき。聖代の昔になおこの事あり。いわんや末代においてか〉(『春記《しゆんき》』)  越後守、安芸守の要職にある者が、世民に捕らえられて殴られ、髪を剃《そ》り上げられ、罪人のように鉄枷《てつかせ》を付けられたり、洛中で殺されるという事件が、延喜年間にも起こっている。  それでもなお公家たちが聖代と崇《あが》めたのは、この頃にはまだ朝廷の勢いが盛んで、王法と王事が厳格に行われていたからである。  これを破壊したのは、前嗣らの先祖である藤原氏だった。  中臣鎌足の末である藤原氏は、天長十年(八三三)に即位された仁明《にんみよう》天皇から、寛徳《かんとく》二年(一〇四五)に即位された後冷泉《ごれいぜい》天皇まで、なんと十七代、二百年間にわたって自家の息女を后として入内《じゆだい》させつづけた。  外戚《がいせき》として摂政や関白の地位を独占し、私領である荘園を増やし、藤原道長の頃には朝廷をもしのぐ巨大な富と権力を手中にしたのである。  ここにおいて律令制度は崩れ去り、宗教的な秩序である王法は朝廷が、実際の政治である王事は藤原氏が司るという祭政分離の体制が生まれた。  ところが皮肉なことに、朝廷の衰退は藤原氏の没落という結果を招いたのである。  いかに藤原氏が栄耀《えいよう》栄華を極めたとはいえ、その権威は朝廷の外戚という立場を抜きにしては成り立たない。  朝廷は根幹であり、藤原氏は枝葉である。  ところが自家の権勢を拡大することばかりに意を用い、朝廷を衰退させたために、藤原氏も没落していったのだった。  こうした状況を見た白河天皇は上皇となって院政を布《し》き、藤原氏から政治の実権を奪い返すという挙に出た。  このために藤原氏ばかりか新しく台頭した源氏や平家までが、天皇派と上皇派に分かれて争い、骨肉相|食《は》む保元の乱を引き起こしたのである。  そんな混乱しきった時代に直面した藤原頼長は、まず延喜・天暦の聖代に立ち返るという原則を確立することから改革の手をつけた。