ヴィトン ホームページ
null
null「はあ」 「官軍はもう江戸間近まで進出している。その間をくぐり抜けて駿府までゆき、総督宮に歎願するのだ。出来ると言う自信はあるのか」 「やって出来ぬことはないと信じます」 「うむ、お前なら、必ずやりとげると、私は信じている。よし、鉄太郎、上様の御前に参上しよう」  高橋は先に立った。  廊下の中途で、ふり向いて、  ——あそこだ。  と、突当りの部屋を、目顔で指した。  高橋は、ひざまずいて襖《ふすま》を開き、 「お召により、山岡鉄太郎を召連れましてございます」  と、言上した。 「はいるがよい」  と言う慶喜の声が、余りに近くに聞こえたので、鉄太郎はちょっと驚いて、頭をあげたが、もっと大きな驚きが待っていた。  薄暗い、狭い部屋に、見るからにやつれた慶喜が坐っている。それが、つい目と鼻の先なのだ。次の間も、上段の間もない。自分の家の茶の間ぐらいの狭さだった。  鉄太郎は、頭を上げて、その人を見た。  今迄にも、遠くから見たことは何度もある。だが、こんなに間近に、その人を見るのは始めてであった。  黒の木綿の袷《あわせ》に羽織、小倉の袴、憔悴し切った顔容——これを知らぬ者がみたら、前将軍とは誰一人考えもしないだろう。  最高の主権者の地位から、ほとんど囚虜《しゆうりよ》にも等しい境遇に転落した不運の人物の、みじめな姿がそこにあった。