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プラダ財布新作2012編集

 しかし、この話の焦点は、ジョン・ウェインの遺家族がアメリカ政府を訴えて、勝てるかどうかということでは、勿論ない。ウェインの一家が裁判に勝とうが負けようが、それは私たちの関心事ではない。私たちの関心は、もっぱら原爆実験の跡地と、ジョン・ウェイン他、撮影隊一行のガンの罹病率との間に、どれだけの因果関係があるかということだろう。  だいたい原爆実験地と、撮影隊のロケーション地との距離や地形など、位置関係のくわしいことは、新聞には出ていなかったので、一切わからないのだが、三百何名の団体を組んで出掛けた以上、常識的には安全を見込んだうえでのことに違いない。そして撮影隊員のガン罹病が原爆実験地にのこった放射能その他の物質のせいであるとすれば、この影響力は彼等の常識的判断をこえて、遥かに強いものだったということになる。これは当然、ウェインの一家が裁判に勝てるかどうかなどより、ずっと大きな問題である。  それにしても、アメリカ人は原爆について何と鈍感な連中だろう。これは勿論、この新聞記事があくまでも正確なものだとしての話だが、ジョン・ウェインが死んだのは一年前、そのガンの罹病が発見されてからは十年近くもたっているだろうに、いま頃になって原爆実験地の近くへロケーションに行ったことが問題にされるというのは、彼等の原爆についての認識が私たちとは、まったくカケはなれてノンキであることを示すものだ。  私たち日本人は、原爆アレルギーといわれるほどに、核に対する恐怖心が強い。或いは、この恐怖心は水鳥の羽音におどろく式の無意味なものでもあるだろう。私たちは一般に、理科的知識や科学的常識のうえで、アメリカ人よりもそんなにまさっているとは思えないからである。しかし、こと核分裂作用の害について、常識的判断などというものが通用するものだろうか? 何といっても、それは過去に例のない未知の分野のものである。経験によって学んだり判断したり出来ない種類のことなのだ。  それにアメリカ人たちは、原爆をつくって戦争に使用したということに罪悪感を持ちたくないという意識が、つねに有形無形にはたらいている。ジョン・ウェインが原爆のせいなどではなく、タバコのせいで肺ガンにかかったと思いたがっているのである。しかし原爆について、われわれは責任を追及するなどというよりも、まずその害毒を出来るだけハッキリと具体的に突きとめる必要があるだろう。 ——昭和五十五年十一月  雁と鴨とについて  雁《がん》は上野不忍池の名物である。晩秋のきょうこの頃、池のあちこちに羽根をやすめた雁の群れが見られる。雁は私の家の近所の多摩川にもやってくる。巨人軍のグラウンドのある河川敷《かせんしき》の向う側の水辺に、雁が巣をつくるのに好い場所があるのか、真っ黒いかたまりになって浮かんでいる。  以前はよく、そのへんまでコンタをつれて散歩に行った。朝早く、まだ誰もいない枯れ草の河原でコンタを放してやると、その気配を察するのか、遥か向うの水辺から数百羽の雁がイキナリ空に舞い上ったりして、壮観であった。  ところで、雁は鴨《かも》ともいう。字引きをひくと、どちらも「がんかも科の一種」とあって、雁と鴨との違いについては述べていない。しかし、秋の空を長い列になって北方から飛んでくる鳥は、「かも」ではなくて「がん」である。また、鉄砲打ちが仕止めて鍋にして食う場合は、「がん」ではなくて「かも」と呼ぶべきである。そして|森※[#区が區]外の小説『雁』は、青年のたわむれに投げた石に当って死ぬ鳥が「がん」だから悲劇になるのであって、あれがもし「かも」だとすると喜劇的になってしまう。  鴨といえば、先頃、私は或る先輩のすすめにしたがって、湘南海岸の小さな町のそば屋へ行き、ひどい失敗をやらかした。先輩は根っからの東京人で、そばだの鮨《すし》だのは子供のときから食いつけているから、なかなか味の註文がうるさい。たとえば行きつけの鮨屋に入って、一緒に鮨をつまむと、 「きょうの鮨は馬鹿に塩っ辛いな。君はどう思う」と訊かれる。
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