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 大正二年、護憲運動で窮地に立った桂内閣にかわって、海軍と政友会に基盤を置く山本権兵衛内閣が成立。この内閣に、政党側からは執拗に「陸海軍大臣は現役の大、中将に限る」という一項の〈現役の〉という文字を削るよう働きかけがあった。これがある限り政党内閣は陸軍に生殺を握られるという懸念からだった。結局、政党の要求と世論と、加えてこの内閣の内相原敬の主張が実り、この一項は、削除された。このとき原は、将来は軍部大臣武官制の撤廃まで想定していた。  むろん陸海軍は異を唱えた。参謀総長長谷川好道は二回にわたって天皇に拝謁し、この決定の変更を迫った。軍事費の削減、国防方針の混迷、軍事の政治への従属という一連の図式がなんとしても我慢できなかったのである。だが天皇は軍部の意向を無視した。  山本内閣は海軍軍人の収賄事件(シーメンス事件)で倒れ、大正三年四月には大隈重信を首班とする第二次大隈内閣が成立した。陸軍の二個師団増設を認めることで誕生したこの内閣は、反軍部を唱える大隈の意に反し、山県を中心とする陸軍長老にふり回された。しかも五カ月後には折りからの第一次世界大戦に日英同盟の制約で、ドイツに宣戦布告しなければならなくなり、山県ら陸軍首脳の唱える「世界無比の大戦に参戦する以上、内争を事として外侮を忘るるときではない。挙国一致内閣の成立こそ急務だ」という圧力であっけなく倒れた。ついで大正五年十月には寺内正毅内閣が誕生した。ここに官僚と軍人主導の内閣を指す挙国一致内閣という曖昧な慣習がはじまった。それも彼らこそが天皇に忠誠を誓う集団であると自負しているためだった。  山県も寺内も参謀次長田中義一も、第一次世界大戦を勢力拡張の具としてつかったが、日常の陸軍の業務に戦争の影響はなかった。ドイツの領有していた青島を攻撃し占領しても、それは陸軍内部を興奮させる出来事ではなかった。日英同盟のよしみで連合国側に立っているだけで、心情的にはドイツに傾く空気が省部にはあった。大正三年八月の参戦通告と同時に、ドイツとの関係は切れ、それは大正十年二月までの六年六カ月にわたってつづくのだが、親ドイツの空気は消えなかった。  とくに大正七年春に、西部戦線でドイツが大攻撃に出ると、参謀本部には「ドイツももうひと押しだ」という声があがった。そのドイツが五カ月で総退却し、休戦条約に調印すると失望の声さえ洩れた。 〈なぜドイツは負けたのか〉  かわってそういう声が起こり、ドイツ敗北の研究に着手する者がふえた。それは、ドイツ陸軍を模倣している日本陸軍の欠陥の洗いだしになるからだった。青年将校のなかでも熱心な勉強家は、ドイツの情報を集めはじめた。さらに関心を深めた者は、この大戦の途次に起こったロシア革命に目を移し、レーニンのソビエト政府の研究をはじめた。日本がアメリカとともにシベリア出兵を決めると、青年将校の関心は一層この社会主義国に移った。依然として日本の仮想敵国はロシアであることにかわりはないからだ。  大正八年七月、陸軍省高級副官室に呼ばれた東條は、「独乙国駐在」を命じられた。和田の後任の松木直亮は、明治末期に三年間ほどドイツに駐在していただけに、ことのほか喜んで辞令を渡した。 「君と参謀本部の山下奉文大尉の二人が送られる。ますスイスのベルンに行き、ヨーロッパを見て回るがいい。ベルリンの大使館が再開されたら、すぐにそちらに移ることになっている」 〈ドイツ駐在〉は東條が待ち望んでいた辞令だった。陸大を卒業した者のうち上位グループ、ふつうは十人から十五人が三年間の外国勤務を命じられる。それぞれ専攻語学によってドイツ、ロシア、フランス、そしてイギリス、アメリカなどに送られる。ドイツ留学者は他の国への留学者より栄達の機会が多く、しかも第一次世界大戦のためここに送られる者はこの数年途絶えていた。ドイツとの国交再開をまえにして、ドイツ駐在を命じられたのは中堅将校のひとりとして嘱望されていることをものがたっていた。  また、この裏に陸大幹事に転じた和田亀治の強力な推薦があった。だからこの辞令は、父親の遺産ともいえた。  ドイツ留学を命じられるなり、カツと三人の子どもを田川村に帰すことにした。ふたりはドイツ留学の間の生活をこまごまとしたところまできめた。そういう几帳面さが、この夫婦に共通する性格だった。……陸軍省からの俸給百三十円、これが陸軍省からカツのもとに送られてくると、そのうちの五十円は東京のチトセのもとに送り、のこりの八十円でカツと三人の子どもが生活する。手紙は一週間にいちどは投函する。  ふたりは確かにそういう生活をした。カツは倹約して夫の留守に三千円の預金をし、東條はカツの父親からもらった餞別三千円を軍服の裏にぬいつけて出国したが、そのままつかわずに帰国した。合わせて六千円で世田谷の太子堂に家を建てる。ドイツ風のすきま風がはいらないようにした、二階建てのしゃれた建物である。  東條と山下奉文は、大正八年九月下旬、横浜港からスイスに向かった。四十日間ほどかけて、ヨーロッパに着いた。  二人が荷物をといたベルンの公使館には、陸軍の将校がかなり集まっていた。ドイツ大使館の再開を待つ将校、それに陸軍省、参謀本部の青年将校がヨーロッパ出張でやってきてはこのベルンに滞在する。いわば梁山泊の感さえあった。東條や山下が着いてまもなく、梅津美治郎が駐在武官として赴任してきた。陸士十五期で東條の二期先輩にあたるこの軍人は、大正二年から一年間ドイツ駐在を経て、第一次世界大戦勃発後はデンマークに移り、そこで戦局の様相を研究していた。彼の再度の赴任は、軍中央が本格的にドイツ敗戦の分析に力をいれようとする意図のあらわれだった。  東條と山下には、さしあたり特別の任務はなかった。 「ヨーロッパを見てくるがいい」
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