ルイヴィトンプレフォール2013
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null 淀橋から四谷見附近くの、元紀州家家老の屋敷に移ったのは、この後のことである。この新邸からは一っ走りで、仮皇居である赤坂離宮に走り込めた。 [#改ページ]  征 韓 論  対朝鮮の国交関係が緊迫の度を加えてきたのは、明治六年夏である。  わが国では明治新政府の成立直後、朝鮮に対し、幕府の倒壊と天皇政権の樹立を告げ、今後の修交を求める国書を送ったが、朝鮮政府は、この文中の字句や印章が旧来のものと異ることを理由として修交を拒否した。  新政府の中では、朝鮮の非礼に対して責問の使者を送り、必要とあれば兵力をもってこれを伐《う》てと言う議論も出た。  他ならぬ木戸孝允がこの征韓論の急|先鋒《せんぽう》であった。  木戸は、眼窩《がんか》狭小、同胞互いに傷つけ合う国内の情勢を打開するため、国外への進出を要望したのである。  つまり対内政策の必要上、外国侵略を主張するもので、この同じ木戸が五年後には、征韓論反対の巨魁の一人となったのも、全く同じ対内的理由からである。  明治三年、外務権大録佐田白茅、同少録森山茂は使節として朝鮮に向い、朝鮮政府と談判したが一向に要領を得ず、憤慨して帰国した佐田と森山とは、それぞれ建白書を奉って、征韓を主張した。  明治五年八月、政府は外務大丞花房|義質《よしただ》を特派したが、滞在中その公館を封鎖に近い状態に置かれ、何ら得るところなく帰国した。  この頃になると、朝鮮国内における反日感情は頗る強く、  ——日本人は西洋人と交り、禽獣に等しきもの。これと交るべからず、この禁を犯すものは断首の刑に処す、  と言う布達を行っている。  維新前の、わが国の攘夷党と全く同じく、