グッチ新作
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null と、戦国の諸雄からおそれられた斎藤道三《どうさん》こと庄九郎が、その、史上で名を高からしめた斎藤姓を名乗るようになったのは、天文五年の春である。余談だが、このころには、のちのちかれの婿《むこ》になる織田信長がすでに隣国の尾張でうまれていて、数えどし三つ。  その信長の花嫁になって才色比類なしといわれた庄九郎と小見《おみ》の方《かた》のむすめ「濃姫《のうひめ》」は当時かぞえて二歳。  まだ、赤ん坊でしかない。  ところで、庄九郎が斎藤姓を名乗ったこの天文五年の元旦《がんたん》に、おなじく隣国尾張中村のあばらやでひとりの奇男子がうまれている。のちの豊臣秀吉《とよとみひでよし》である。  道三、信長、秀吉とつづく戦国の系譜は、この年の前後に誕生したわけである。  さて、さらに余談を。  斎藤姓についてである。この日本人の姓のなかでもっとも多い苗字があらわれたのは、平安朝の初期であるらしい。  平安初期、鎮守府将軍になった藤原利仁《としひと》という人物がある。その子で叙用という人物があり、どんな男であったかはよくわからないが、この藤原叙用がこの姓の祖である。  藤原叙用が、宮仕えして伊勢の斎宮《さいぐう》の世話をする役所の長官(斎宮寮頭)になった。従《じゅ》五《ご》位上《いのじょう》。  廷臣のなかで藤原氏が多い。そのひとをよぶときまぎらわしいため、京都の屋敷の所在地の町名でよんだり(たとえば近《この》衛《え》、一条、三条といったふうに)、その子孫で地方に住んだ者はたとえば加賀なら加藤とよんだりした。  斎藤は叙用が斎宮寮頭になったため「斎藤」と略してよばれたわけである。  その子孫が諸国に散った。なにしろ鎮守府将軍利仁の血系であるために国々では威をふるい、羽《う》前《ぜん》、武蔵《むさし》、加賀、能登《のと》、越中、越後、美濃など、とくに北国、東国、坂東《ばんどう》の在所、在所で栄えた。平家物語で白《しら》髪《が》を染めて戦場におもむく平家の老侍大将斎藤別当実盛《さねもり》は、武蔵国長井の住人であったし、謡曲の「安《あ》宅《たか》」に出てくる加賀の守護斎藤富樫介《とがしのすけ》は、加賀で繁栄した一族である。  美濃の斎藤氏は、すでに足利《あしかが》時代の末期、斎藤妙椿《みょうちん》というきこえた武士がおり、美濃守護職土岐家の家老として腕をふるい、一方、歌道にたんのうで、京の公卿《くげ》を美濃へ招待したりして都にまで名を知られていた。  庄九郎の当時の美濃斎藤家は、国主の土岐家と婚姻《こんいん》をかさねて分家同然になっており、長井家とともにこの国きっての名家であることは、すでに何度かふれた。 「斎藤の家をつぐがよかろう」  と庄九郎にいったのは、国主の土岐頼芸である。庄九郎が頼芸にそういわせるように仕むけて行ったこともたしかだが、しかし斎藤の宗家がほとんど死に絶えたも同然で、  ——名家の名跡が絶えるのは惜しい。  という正当な理由もあった。