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2015-02-06 23:25    プラ ダ新 作2012 バッグ
 荷風はまた枕山の「飲酒」の詩(安政三年)、即ち、時人と相容れざるに至った自分を書くとともに後進の青年たちが漫に時事を論ずるの軽佻浮薄を詈った詩であるが、それを引いた後に、次のように書いている。 「枕山がこの『飲酒』一篇に言ふところは、恰もわたくしが今日の青年文士に対して抱いてゐる嫌厭の情と殊なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以も亦之に他ならない。」  私はみずから「酒痴」といい、「最人」といった枕山に対する並々ならぬ荷風の傾倒を見出し、おのずから外祖父の毅堂に対する態度とは別のもののあることを知った。  私は枕山と毅堂とは明治維新を境にしての文人の二様の生き方を代表していると思う。髻を結んでいた逸民酒痴の枕山と、倨傲の印象を人に与えた司法権大書記の毅堂と、即ち新時代の文明開化に背をむけた文人と、文明開化の浪に乗ってその指導者となった文人との両様である。枕山と親交のあった成島柳北の如きは枕山傾向の人であったろう。然し柳北は朝野新聞社長として野には在ったがなお豪勢な生活を送っている。私は枕山とともに陋巷に酒を飲み、古詩を愛して世に知られることなく死んでいった多くの逸民のあったことを想像せざるをえない。夏目漱石の『猫』のなかの諸人物、なかんずく苦沙弥、独仙の徒はこの逸民の名残りであろうか。  我々の世代はもう漢詩を存分には読めなくなっている。近代文学の濫觴を逍遥の『小説神髄』や二葉亭の『浮雲』に求める近代においては、髻を結んだ漢詩人などはもう問題の外におかれている。しかし、江戸中期以来の文人気質をその本質の姿で伝えているのは反ってこの逸民たちであったろう。伊藤整のいう文壇における逃亡者、実生活、実社会からの逸脱者たち、即ち自然主義以来の私小説家たちも、枕山系の逸民が明治においてなお生存しつづけていなかったならば、現われえなかったであろう。いわゆる破滅型の作家、織田作之助、坂口安吾、太宰治の徒にも、支脈ながら連りはあろう。私はここで『下谷叢話』中に出てくる竹内雲濤なる人物のことを誌しておきたくなった。  雲濤は枕山と深く交った。雲濤は神田旅籠町に住み、海堂詩屋と称した。枕山等と詩会を詩屋に開いた時の句に「客来窮巷深泥裏」というのがある。狭い路地の奥で道はどろんこであったというのであろう。雲濤は酔死道人と号したが、酔死を以て本願としていたという。横山湖山はこの道人の人となりを書いて、「性放誕不羈、嗜酒任侠、動もすれば輙ち連飲す。数日にして止むを知らず。稍意に当らざれば則ち狂呼怒罵して其座人を凌辱す。又甚生理に拙し。家道日に艱しむ。琴嚢書※[#「竹/鹿」、unicode7c0f]典売して殆尽く。是を以て朋友親戚挙つて其の為す所を咎む。而も傲然として顧ず。誓ふに酔死を以て本願となす。奇人と謂ふ可し。」文久二年に、四十八歳或いは九歳を以て歿した。友人西島秋帆の作った墓誌中に、「既に風月を楽み、又美禄に飽く。杯を抛つて一たび臥するや、長に眠つて覚めず。誰か薄命と謂ふ」とある。いわゆる破滅型は昭和の特産ではなかったことがわかる。  枕山系統の人として成島柳北をあげたが、荷風の父永井久一郎(禾原)は毅堂の系統であった。禾原は毅堂の門生であったが、詩は枕山に学んだ。既に書いたように、明治十年二十六歳の久一郎は毅堂の二女恒子と結婚した。明治十年といえば毅堂は大審院五等判事となった年で、久一郎は数年前アメリカ留学から帰り、東京女子師範の訓導をしていた。毅堂のおめがねにかなった人物であったことが察せられる。久一郎がやがて文部省に入り、その会計局長となり、転じて日本郵船の上海支店長、横浜支店長をつとめた。長男の荷風に立身出世を期待したことは既に書いたが、彼みずからそういう経歴であった。  さて荷風自身はどうであったか。荷風が枕山に対する同感の言葉を強い調子で度々書いていることは既に言ったところである。然し荷風は果して枕山流に生きたかどうか。彼が立身出世主義を説く父を俗物といったこと、自分を俗世間からみれば無用者であり、無頼漢であるといったことも既に書いた。彼は詩人を非俗人として設定した。その限りでは枕山流といってよい。然し同時に彼の非俗人たることの標榜は即ち文明批評遂行の拠点ともなっている。彼はみずからを無頼漢として設定することによって、俗世を批評する根拠をみいだした。私は荷風追悼の座談会で武田泰淳が言つている次の点に深い興味を感じた。 「このくらゐ自己主張があつたら、政治家にもなれる。現代がいかにだらしないかといふことを、たえず言はないと、踏み切れない。もともとだらしないことが嫌ひなんだから、そのだらしないところに行くといふことは、非常に憤りがある。その憤りが、もしかしたら一種の愛国心だつたんぢやないか。それが荷風を明確にしてゐるやうな感じがする」(『中央公論』、昭和三十四年七月号)。  愛国心という言葉と荷風の小説とは一見結びつかないようにみえる。然し『断腸亭日乗』にはいたるところに愛国心の流露がみられる。そういう点で国事を論じ、国政に与った毅堂の血が荷風の中に流れていたといえないことはない。父へのいわゆるアンビヴァレントな態度にもそれがみられるだろう。父の死の直後に書かれた『父の恩』については既に書いたからここではいうまい。母の臨終のときにも、見舞うことを意識して避け、長男でありながらその葬儀にも列しなかった無頼の子は、その日記の中に、ひそかに、「泣きあかす夜は来にけり秋の雨」「秋風のことしは母を奪ひけり」の追悼句を書いている。ここにも離れていることによっていよいよ近い慟哭がある。荷風は韜晦することによって、実は現実世界に非常に近いところにいたのではなかったか。そういう一面があったことは否定できない。枕山も毅堂も、もとをただせばともに鷲津幽林の孫である。荷風の中には鷲津家の両様の血が流れていたとみてよいだろう。 [#小見出し]   二 文人気質の成立過程、並びに文人群像  私は永井荷風の死を動機として、文人気質なるものを具体的に究めたいと思い、いわゆる倒叙の形をとって成島柳北、大沼枕山と遡ってきた。然しここまで来て、倒叙の形式では十分に尽しえないことを感じた。もししいてこれをなせば痩せたものになる。ある一つの系統は尋ねうるが、他流にわたることが困難になる。私は倒叙の形を捨てて、寧ろ一気に源流に遡り、そこから下る方法をとることにした。文人気質なるものを綜合的にみようとする場合、そうせざるをえないのである。  いわゆる文人には詩人あり歌人あり、狂歌師また俳諧師あり、画家また篆刻師あり、学者また随筆家あり、好事家もあり書家もあり、またその二、三を兼ねるもの、四、五を兼ねるものもあって多種多様である。そうしてその多芸多才こそ文人気質の性格のひとつである。そういう多種多様な文人を、ひとつの系統をたどることによっては書きつくせるものではない。と同時にまた私の関心は、そもそもから文人気質であって、文人列伝ではないのだから、一々その多様性を人物を通して示す必要もない。何故に江戸中期以後において、多芸多才な文人を生んだかということが中心問題なのである。