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ミュ ウミ ュウ バッ グ2012編集

 戦争初期の海外放送は大東亜共栄圏の旗印の下に、日本の戦争目的は帝国主義的侵略ではなくアジア民族の独立を促進するものだとし、「アジア人のアジア」を強調した。宣伝の基調は、まず日本側が戦争に勝っていることを力説した上で、アメリカ連合軍のアジア侵略を非難し、オーストラリアに向けては大東亜共栄圏への参加を促した。  宣伝は適切にして真実以上のものでなくては成功しない。ところが大本営発表に基づいた宣伝放送にはその真実がまず欠けていた。日本は心理戦において完敗したといわれるのもここにある。負けているのに勝った勝ったという宣伝では、話にならない。現に、前線に出ていた連合軍将兵にとってウソの戦況ニュースほどばかばかしいものはない。  それに、日本の宣伝放送技術は連合軍諸国と比較して問題にならぬお粗末さだった。「行け八紘を家と成し、四海の人を導きて、正しき平和打ち建てん、理想は花と咲き薫る」の愛国行進曲をラジオ東京は、開戦以後のテーマ・ソングとした。恒石のアイデアで「神武時代より続く神の子天皇を戴く神兵たる日本兵は死をも恐れるものではない」と繰り返し、敵を嚇かすためと称して祝詞まで上げさせた。  他にラジオ東京からよく聞かれた言葉には「日本の聖戦」「神の意思により」などがあった。心理戦とうたいながらも、その聞き手である敵国人の慣習からくる考え方、心理をまったく無視した、幼稚で一本調子の宣伝放送は、外地から引き揚げて来る者や海外出先機関からの報告でも批判されたばかりか、当の海外局内からさえ批判がきかれた。  だが、なんといっても問題点はスタッフの貧弱さにあった。L・D・メオはその著書『オーストラリアに対する日本のラジオ戦』(Japan's Radio War on Australia)でそれを指摘している。 「多分、宣伝活動において最も重要なことは、有能なプロパガンディストを集めることであろう。この最も必要なる点が残念ながら東京放送には欠けていた」  たとえば、アナウンサーがすでにジャーナリズムの最先端をゆく職業だったアメリカでは、正規の放送教育を受けた者がしのぎを削った末に残った優秀な人材を集めていた。もっともNHKも人材集めを無視したわけではない。戦前に幾人もの二世や在米日本人を呼び寄せていた。しかしその場合でも、ただジャーナリズムまたは芸能界にいたというだけで招かれた者がほとんどだった。  当時、米州部放送班長(アナウンサー)だったのが平川唯一である。戦後に「カムカム エブリボディ」で始まる英語放送で名を知られたあの平川である。彼は、米州部の英語アナは単に英語が話せる二世を主とした素人の寄せ集めであり、一人として正規の放送教育や訓練を受けたプロといえる者がいないと嘆いたという。  そのなかで、女性英語アナのトップは戦前NHK入りした古参のジューン須山芳枝であった。須山は日本生まれであるが、幼年からカナダで育った。低くて非常に魅力的な声を持ち、放送もうまかった。局内では「南京の|鶯 《うぐいす》」と呼ばれてその才色兼備をうたわれ、女性アナの中ではずば抜けた存在だった。戦前彼女には世界中からファンレターが舞い込むほどだったという。  ルース早川寿美は日本で生まれたとはいえ、二歳の時からロサンゼルスで育ち、同市で短大まで出ている。彼女は須山とは異質の高く澄んだ少女《ヽヽ》のようなきれいな声の持主であった。マーガレット加藤弥恵子は日本で生まれて、ロンドンで育った。低音で、その英語は英国アクセントである。  アナウンサーとして雇われた正規の女性英語アナは以上の三人のみであった。他はすべて人手が足りなくて、米州部タイピストのなかから起用されてアナウンサーとなった者ばかりである。キャサリン師岡薫(二世)、古屋美笑子(二世)、石井メアリー(母が英国人)などすべてタイピストあがりである。男性アナも多数いた。平川、チャールズ吉井寿雄(二世)、スチュアート田浦(二世)などが中心となった。  男女のアナたちがアメリカと比較にならぬ素人の寄せ集めならば、彼らが読む放送原稿も話にならなかった。ニュースおよびニュース解説ライターにはアナにくらべて日本人が多かった。特に解説は日本人が手がけた。自然、彼らの書く原稿には英語に無理に置き直した日本語的表現が目立った。耳障りで、かつ滑稽なものが多かった。英語を得意とする二世がいながらおかしな英文が出来上がったのは、最終的にはアメリカ生まれの彼らを信用せず、アメリカ大学出の日本人たちに頼りすぎていたところにあるようだ。二世のライターは、主としてニュースのリライトや娯楽演芸番組企画を担当した。  そのニュース自体にも問題があった。当時海外局のニュースは同盟通信、陸軍、海軍、情報局およびドイツのDNB通信、イタリアのステファニイ通信から提供される資料と、外務省と放送局で直接傍受していた連合軍側ニュースであった。  これらのニュースを扱う海外局編成部は、英語その他の外国語で入るニュースをまず日本語のニュースおよびニュース解説原稿に翻訳した後、各地域部のニュース翻訳班に手渡し、あらためて各部が担当するそれぞれの国の言葉にその日本文を翻訳し直させた。そのため、原文からほど遠い結果になる場合が少なくなく、特に原文に引用句などある場合はぜんぜん違った文ができ上がったりした。 「勝った勝った」の戦況発表とともに、このへんにも対外放送の問題点があった。これを指摘し改正を促す局員もいないではなかったが、終戦まで改められていない。  戦時中、日本は東京からのNHK海外放送とはまったく別個に、いわゆる「南方」と呼ばれた東南アジア諸国の放送局からも宣伝放送をおこなっていた。表面に名こそ出していなかったが、これら諸国からの宣伝放送を陰で操っていたのも参謀本部の恒石である。  恒石は「放送管理局要員」という肩書のもとに約三百人以上のアナウンサー、放送技術者たちをエキスパートとしてこれら南方へ派遣した。また多数の放送経験のある現地人がそれら日本人の監督下で働いていた。
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