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 私にとつて南坊宗啓といふ人物は不可解である。利休と同格としてみづからを示してゐたり、また無二の高弟として書きしるしてゐるところがある。然しそれを傍証する資料はない。利休のかくれたる友、また禅を語つては利休より先達のごとくにみえるが、然し利休ほど名の通つた人物の周辺が、それほどの宗啓の存在をも知らなかつたといふことは解しがたいことである。また一方には宗啓自身不当と思はれるほど卑下してゐるところもある。一々利休の裏書を求めてゐることなどもそのあらはれとみてよい。利休から道安や少庵といふ血脈をも無規して秘伝を授けられたといふほどの宗啓なら、もう少し自信があつてよささうに思はれる。宗啓にはちぐはぐなところがめだつて、統一した宗啓像といふものがでてこない。  従来の解説書は宗啓を次のやうに伝へてゐる。宗啓は堺の富豪にして数寄者の家筋でもあつた淡路屋の出身で、同地の禅通寺の春林和尚に参じて得度し、喝食から蔵主に進み、慶蔵主、やがて慶首座とよばれた。永禄元年頃から利休に師事した。春林和尚の歿後、南宗寺の塔頭集雲庵の岐翁和尚に参学し、禅を深めた。彼は清貧に甘んじ、名物茶器もなく、露地さへもない集雲庵の三畳に侘びつくした。天正十九年利休の切腹するや、怏々として楽しまず、師からききとつた茶道の逸話などを集録して、これを『滅後の書』と名づけ、従来の聞き書と併せて全七巻を完成し、文禄二年二月二十八日、利休の三回忌にその霊前に香華を供養しをはり、そのまま何処かへ立去つたまま、終るところを知らないといふ。一説には筑後に下つたともいはれる。  この最後のところを『滅後の書』の末尾のところから直接に引用してみよう。 「右此一巻ハ、文禄二癸巳二月二十八日  先師利休宗易大居士第三回忌辰香華茶菓ヲ供養シ、誦経回向シ畢ツテ、燈下懐旧ノ涙シタシテ、アリシ物語共ヲアトサキトナク書ツヅケ、已ニ一巻ト成者也。執筆序、一偈唱テ牌下ニ呈ス。利休大居士清茶門弟南坊宗啓稽首    孤灯油尽花僅白 一鼎水乾茶不青    師去草房三覚夢 東風報暁涙空零  私はこの文章全体に作為の跡を感じる。文章に脈絡がない。殊に「誦経回向シ畢ツテ、灯下懐旧ノ涙シタシテ」云々のあたりの書きぶり、また門弟南坊宗啓とみづからの名を書きつらねるあたりに素直でないものを感ぜざるをえないのである。 『南方録』が今日の形で残つたいきさつを簡単に紹介しておかう。九州黒田藩の家臣立花実山が、貞享三年藩主に従つて江戸に上る途中、蒲刈に船をとどめてゐたとき、京都の何某といふものから手紙がきて、利休秘伝の茶湯書五巻を所持する人があり、それを密々に書写してもよいといふ趣であつたので、縁に感じて写しとつた。その後この書の残部を探してゐたが、元禄三年にいたり、堺に宗啓の遠孫にあたる納屋宗雪なるものがゐて、残りの二巻を所持してゐることがわかり、懇望して書き写した。ここに七巻が成つたのだが、そのうちの秘奥と思はれる九ヶ条を実山自身がぬきだして別巻としてこれを筐底に秘めておいた。その後『追加』一巻を加へ、全九巻となり、これを実山の実弟巌翁が書き写したものが即ち今日の『南方録』であるといふ。なほこの成立事情は小宮豊隆氏の前掲書に詳しくしるされてゐる。  さて『南方録』を擬書または偽書とした場合、その下手人は誰かといふことになれば、立花実山か、または実山が書き写したといふ京都何某の所持した原本の筆者か、それとも実山の実弟巌翁かのいづれかである外はない。実山は原本となづけてゐるものの筆者を南坊宗啓といつてゐるが、ここにも宗啓の名を騙つた第三の者の介入を許せないことはない。  小宮氏は実山自身が偽作また創作したものではなく、典拠によつたもの、少くとも五巻まではさうであるとみてゐる。然し実山の拠つたといふ原典がかなりのあやまり、また疑はしい点をふくんでゐることも認めてゐる。堀口氏は『南方録』全部を擬書と断定してゐるが、私の知る限りでは、擬書の成立事情には及んでゐない。  とにかく利休の死後まる百年たつて、初めて発見され流布されたこの記録には、いくたの疑問をさしはさむ余地がある。私が冒険と知りつつ、空想的推定をすれば、凡そ次のやうなものではないかと思ふ。  利休の側近の一人が、利休の言行、また点茶の方式を断片的に書きとめておいた。側近は誰とはいへないが、少くとも南坊宗啓より以上に利休に直接に近いものである。専門の茶湯者ではなく、いはゆる利休七哲のうちの一人とみてもよい。高貴とはいはないまでも相当な禄高の者である。利休の切腹が秀吉の怒にふれたものである以上、その言行録を公にすることができず、秘しておいた。この断片的な秘録を、南坊宗啓か、または宗啓の名を騙る第三の者が、ある機会に手に入れて、種々の書入れをしたりして、もつたいをつけた。第三の者がもしあつたとするならば、それは大徳寺系統、または南宗寺あたりの禅家で、宗啓とは親しい茶数寄、侘数寄の者であらう。これが実山のいふ「利休秘伝茶湯之書五巻」の原型と思はれる。立花実山が更にこれに手を加えなかつたといふ保証はない。実山は、この五巻を所持する人があつて、若し希望するなら、写しとつてもよいと言つてゐることを、「京都何某」から書状でいひよこしたといつてゐるが、この辺があいまいである。私は小宮氏のいふやうに、実山を正直な人物とは直ちには思へない。実山とその弟巌翁との合作、または巌翁が合作をよそほつて一人で書いたとも思はれる八巻九巻も、また実山が宗啓の遠孫納屋宗雪所持の原本から写しとつたといふ六巻七巻にも、前五巻以上にあいまいな節がある。然し前の五巻と後の四巻をきりはなして、前五巻だけは少くとも利休直伝の正銘なものだと断定するほどの根拠もない。またさういふ印象もない。  以上は私の印象をもとにした臆測にすぎない。既に小宮氏が実証的に相当程度まで証明してゐる『南方録』の疑点を、更に一層詳細にしらべあげる人のでてくることを願ふ。専門の学者なら、その用語、また文体などからも取扱へる問題であらう。百年を距ててゐるのだから、さういふ点から明らかにしうる点も少くないと思ふ。 『南方録』の真偽の問題は重大問題を含んでゐる。といふのは、従来『南方録』を茶道第一の典拠として、そこから利休の茶の精神を汲みとり、または利休といふ人物の姿をきづきあげたといふ傾向が強い。例へば西堀一三氏の『南坊録の研究』(昭和十九年)の如きがそれである。(一体この書が『南方録』であるか、また『南坊録』であるかも決定されてゐない。私はこのごろの傾向に従つて『南方録』の方を採つてゐるにすぎない。)西堀氏は、この書が、「利休の弟子のうち精神的方面に最も理解の深かつた南坊宗啓が、その所説を筆録し、利休の検閲を得たものである」といひ、「利休の精神を正しく伝へるものである」といつてゐる。西堀氏のやうな立論の仕方は、もしこれが擬書、または偽作といふことになれば、相当の改変を余儀なくされるだらう。  利休を侘び専一の茶人、露地草庵一風の茶人として解釈し、侘びた数寄者として印象づけた資料は、単に『南方録』ばかりではない。たとへば『山上宗二記』がある。「茶湯者ハ無能ナルガ一能也」とか、「茶湯ハ禅宗ヨリ出タルニ依テ、僧ノ行ヲ専ニスル也。珠光、紹鴎、皆禅宗也」とか、「古人ノ云、茶湯名人ニ成テ後ハ、道具一種サヘアレバ侘数奇スルが専一也。心敬法師連歌ノ語曰、連歌ハ枯カジケテ寒カレト云。茶湯ノ果モ其如ク成タキト紹鴎常ニ辻玄哉ニ云ハレシト也。」「宗易茶湯モ早冬木也。」等の言葉がそこにある。もちろんこれは珠光、紹鴎を経て利休に伝つた侘び茶の精神をいつたものだが、「紹鴎逝去三十余年已後、宗易先達也」といふのが山上宗二の立場であつたのである。また久保権太夫の『長闇堂記』の中にも、「宗易華美をにくまれしゆへか、わびのいましめのための狂歌、よみひろめ畢」といつて、利休の、「振舞はごまめの汁にえびなます亭主給仕をすればすむなり」外一首をあげてゐる。外にもなほ資料があらう。  然し、利休の侘びを直接にまた濃厚に仏法、殊に禅に結びつけ、利休の言行を禅の立場から解釈するやうになつたのは『南方録』の影響といつてよい。「侘ノ本意ハ清浄無垢ノ仏世界ヲ表シテ、此露地草菴ニ至テハ、塵芥ヲ払却シ、主客トモニ直心ノ交リナレバ、規矩寸尺式法等アナガチニ云ベカラズ」(『滅後書』)。「又大秘事ト云ハ、カノ山水草木、草菴主客、諸具法則規矩トモニ只一箇ニ打擲シ去テ、一物ノ念ナク無事安心一様ノ白露地、コレヲ利休宗易大居士的伝ノ大道ト知ベシ」(『秘伝九ヶ条』)。かういふ文字の間に、私はごてごてとした禅臭を感じるのだが、同時に利休を露地草庵の侘茶人と解する仕方がここから生れてゐることも事実である。宗啓を利休の精神的方面の深き理解者とする西堀氏などの説もかういふところから起るのである。
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